昭和49年07月07日 朝の御理解
御理解 第30節
「神を信ずる者は多いが、神に信ぜられる者が少ない。」
先ず神様を信じれるおかげを受けなければならない。疑ごうてかかれば、神様は在るの無いの、無いのと同じこと。半信半疑だったら、おかげも半分。信じ切る所に、神は信ずる者を信ずると、仰せられる様なおかげになって来るのです。その先に神様に信じられる氏子、神様が、あの氏子は大丈夫と、言うて下さる様な氏子にお取り立てを頂くということが、信心の最終的な願いだと思うんです。また最高の願いだと思うんです。神様に信じられる氏子にお取り立てを頂きたい。
久留米の初代、石橋先生のところへ、福岡の吉木辰次郎という、三代の偉い先生がおられましたが。まだ吉木先生がお若い時にその当時、久留米の石橋先生と言や、それこそ金光様は真の人とは、石橋さんの様な人だと言われる位に言うなら、金光様の御信用を受けておられた。御信用の篤いお方であった。いわゆる大変な御神徳家であったわけです。先生がもう御晩年、福岡の三代吉木辰次郎先生はまだお若い。
手続き関係に有りますから、久留米にお出でられた時に、石橋先生に、先生あなたの頂いておられる神様の御神徳を、私に分けて下さい。あなたはお年をとられて、御用もお出来にはなりませんので、私が石橋先生の御神徳を頂いて、そしてその御神徳をもって、御用させて貰いますから、あなたの御神徳を分けて下さいと、いう意味のことを仰ったということです。そしたら、暫らく考えられた。
石橋先生が本当に、吉木の三代、吉木辰次郎といえば、教師としても立派な教師だし、本当に自分の頂いておる御神徳、これをこの人に分けられるならば上げたいもんだと思われたのじゃないでしょうかね。暫らく心中祈念をなさった。そしてややあって目を開けられてから言われるのに、御神徳というものは、神様の御信用じゃからなと仰った。どうにも仕方が無いんだということです。これは自分がこの信者が好きだから、これにやろうとか、これは息子だから息子に渡そうとか、いうわけにはいかんのである。
本当に真剣に、あなたの御神徳を頂かせて下さい。そうすりゃ神様に喜んで頂く様な御用も、いよいよさせて貰います。私は若いのですから元気一杯で御用さして貰いますと、言われるのに対して、暫く心中祈念をなさったと言う事は、出来ることならやりたい、上たいという思いではお有りにならなかっただろうかと思います。ややあって仰っておられることは、「御神徳は、神様の御信用じゃからな」と仰った。結局は神様の御信用の受けられる、お前自身になることだと言うことなんです。
神に信じられる氏子が少ない。成程神様に御信用を頂ける様な人が少ないと言う事です。そこで私は思うのですけれども、合楽に皆さんが御神縁を頂かれて、そして合楽の信心を身につけられて、そして自分の心の中に自分の家庭の中に、合楽を現して貰いたい。合楽で頂いておる様なおかげを、皆さんのお家でも頂いて貰いたい。第一にお金に不自由することの無い家庭になって貰いたい。貧乏の無い世界に住んで貰いたい。次には病気の無い世界に住んで貰いたい。
次には争いの無い世界に住んで貰いたい。是が合楽が現わしておる所のささやかな信心ですけれども、一つのサンプルの様なものです。お金に不自由することの無い。それかと言うと、お金が銀行に沢山入れてあると言う事でも無い。けれどもねそれこそ、使うて減らぬ金百両であって、必要な金が必要に応じて頂けれる世界。合楽でも段々そういう方達が増えて来た。それは例えばその人の信心なりですから、千円のお金にだけには不自由しない。もう使うても使うても千円だけは有るということ。
その日暮らしではあるけれども、それは有り難ぁいその日暮らしである。さぁ明日はもう食べる物が無いとさえ思うているところへ、チャンと食べる物が与えられておる。そういう信身と言うか、信心の味わいの世界に住んでいかれる方達が、合楽で段々増えて来た。その信心が育つに従って、言うなら、千円ではなくて、一万円の金だけには、不自由しない、使うても使うても一万円がある。十万円の金だけには、百万円の金だけには不自由しない。もう使うても使うても百万円。
それが私は神様の御信用を頂いた人が現すおかげであると思うです。同時におかげを頂いてです、どうでも体の丈夫を願わせて貰わなければならない。それこそ、芯から根から病気のめぐりのお取り払いの芽を絶えせて頂いて、健康のおかげを頂かなければいけない。いわゆる病気の無い世界。私の方には、九十になります両親が未だ元気でおります。毎朝、私が出てくる三時半頃には、チャッと母がここへ、着物を着替えて、チャッと出て来ます。私の母です。
父もおかげを頂いて大変元気です。もう痛い、痒い言うたことが有りません。肩が凝るけん揉んでくれと言うたことが有りません。私ども夫婦もおかげを頂きまして、本当におかげを頂いております。若先生達の夫婦も大変元気でおかげを頂いております。孫達も何十年間もうお医者さんに手を握って貰ったことが無いという家庭です、私どもの家庭は。未だ、お医者さんの薬と言うものを頂いたことが無い家庭なんです。しかも何十人の者がです。そういう例えばおかげをです。
合楽がおかげを頂くようになって二十数年になりましょうか、椛目、合楽を通して。合楽ではもう薬箱が要らない、いやもう捨ててしもうたという家庭が幾らもあると言う事です。例えばずらっとここに居られますが、久富繁雄さんのお宅、高橋さんのお宅、上野先生あたりもう皆薬箱には縁の無い人達ばかりです。以前は頭が痛いと言やすぐノーシン、胃が悪いと言やすぐ胃散ば飲む。さあどうかあると言やさぁ医者に行って注射して貰って来いと言うておった人達がです。
もうお医者さんへの払いというものは、全然無くなってしまうという家庭がです。段々多くなってきたことです。次には今言う争いの無い世界。どんなに金があっても健康であっても、内輪の中にそれこそ、争いが絶えないという家は幾らもあります。その度に、それこそ血で血を洗う様な悲惨なことすらが有っておるのが現実です。それは人間生きておりますから、様々な意見の相違やら衝突やらもありましょう。
ところがね合楽でおかげを受けておる方達は、そんなら親先生にお伺いをしてからというので、決まってしまうというところに素晴らしい所がある。皆さんその通りのおかげを受けておられる。そういう家庭が多うなって来たと言う事です。それがもっともっと垢抜けして来るところにです。病気の無い世界貧乏の無い世界、争いの無い世界。いわゆる天地金乃神様の人間氏子の上にです、願って止まれない「どうぞ、信心しておかげを受けてくれよ」と言われる、そのおかげがその様にして足ろうて行く。
信心するごとなったら、もう金だけは不自由せんごとなったばってん、もういつも病気ばっかりしとるという様なことでは、足ろうたおかげとは言えないのです。けれどもやはり、貧乏の因とか、病気の因とか、争いの因とか必ず因が有る。その因が段々絶えて来る消えて来る、無くなって来る。そこに合楽の世界が有るのです。神様も喜んで下さりゃ氏子も喜べれる、神様と氏子が一緒に合楽のおかげが頂けれると言う事。いわゆる神様の理想郷である。私どものまた理想郷でもある。
言うなら神の願いと氏子の願いの一致点がそこに出るのです。そこで如何に五つの願い、ここで言われております五つの願いを、本気で願わなければならないかということです。どうぞ体の丈夫のおかげを頂かせて下さい。家庭円満のおかげを頂かして下さい。愈々子孫繁盛、家繁盛のおかげを頂かせて下さいと言うのです。この三つのおかげをどうでも頂かなければです、いわゆる四番目にあるところの、本当の御用が出来んのです。お役に立てんのです。そして五つの神願成就。
いわゆる神の願い、神願が成就していく。神の願いが地上に成ることのための、お役にも使うて頂きたい。言うならばここで「和賀心時代を創る」と言われておる、その一人一人が運動員ともならせて頂く様なおかげを頂かなければならんと言う事。如何に五つの願いというものが、言うなら神の願いであると同時に、私どもの願いでも又なからなければならないと言う事をです。皆さんまず知らなければいけない。
私は昨日或る方のお取り次ぎをさせて頂いた。まぁ例えて申します。その方はお酒が大変好きであるということに致しましょうか。ですからそのためにお金にも不自由したり、そのために、家庭に揉め事が有ったりすると致しましょうか。これは例えですよ。所がです矢張り酒は止められない。それでその方が言われるのに、私がこういう位な事では、おかげが頂ける筈がありませんとこう言われる。
皆さん自分の様な者では、おかげは受けられないという心が、おかげを受けられなくなるのですよ。「はぁ、私がごたる者はおかげは頂ききらん。」自分で「おかげを頂かせて下さい。」と願いながら、そんなことを言うたり思うたりしよる。「とても私がごたる人間は、とてもおかげは頂ききらん。」そして、「どうぞ。どうぞ。」と言うてお願いしたって、おかげの頂けれる筈が無い。そうでしょうが。
だからどうしても酒が止められんのなら。この酒を止めん限りは、自分なおかげ頂ききらんと思うごとあるならです。これでは自分なおかげは頂ききらんと言う、その心がおかげにならんのだから、その酒に例えば御賜り物としてです、神様のお恵みの物としてです、御の字をつけて御酒、御神酒という様な気持ちで頂かれたらどうですか。御の字をつけなさい。酒だけじゃいかん御酒と言う。御酒を頂くと言う事にしなさい。どうぞこれは例えですから。昨日はもっとそんなことじゃ無かった。
その人が大変な自分の体の上に起きて来る、どうにも出来ない衝動的に起きて来る、それがね、「こういう汚い心が起こったんじゃ自分なおかげは頂ききらん。」と、思い込んでいるわけです。それを私は今日は酒に置き換えて聞いて頂いておりますから。皆さんも、自分達の、あぁこげなこっちゃ、おかげ頂ききらんと言うものがあるとするならね、あなた方は、そのことと思うて聞いてくださったらいい。
それは、止められれば越したことは無い。改められればそれに越したことは無い。けれどもそれが、改められないものであるとするならです。もう酒だけは止められんというものであるならばです。ただ、酒を飲むからいかんのですよ。神様の御賜り物、神様から頂く物として『御』の字をつけて頂きなさい。そうすればそこからおかげが頂かれると。私は、その時にね、合楽の合という字を頂いたんです。合うと言う事。あのねものにこだわると言う事は、絶対おかげ頂かれんです。
人と人との拘りが有りますと、心が交流しないでしょうが。その人のために親切に言うておっても、向うでは反対に取る様なことがあるでしょうが。あれはこだわってるからです。だから、その人は、自分は、酒を止めきらんから、おかげは頂ききらんと、もうその酒に拘っておるわけです。そこでその酒に「御」の字をつけて、御恵みの物として合掌して頂くという様な心になる時に、わだかまると言うかそれがなくなる。だからそろそろ有り難いものになって、次のおかげが頂けて来る。
不思議な事に、有り難いものが心の中に頂けて来る様になりますとね。改められないと思うておった事が、楽に改まっていけれる様になるから有り難いです。人間が歯をくいしばって、改めようとしても改められないけれどもね。心の中に有り難いものが頂けて来るとです。その改まって行く事が楽しうなって来る。だからおかげが交流する。こだわるわだかまりがある。おかげが私どもと神様の世界に交流する事の為にです、その拘りがあってはならない。拘っておるからおかげが交流しない流れて来ない。
信心を段々させて頂いて、自分が見えて来る様になる。自分が分かる様になる。分かれば分かるほど、はぁこげな事では相済まん。こげな私がおかげの頂ける筈はない。こう決めつけたらおしまいです。自分が分かると言う事はね。分かったらそこを綺麗にしていこう改めていこうと言う為に分かるのです。ただ分かっただけじゃいかん。はぁ自分なこういう汚れがあった、こういう汚いものがあった。
なら汚いものに気が付いたら、その汚いものを改めていく、それを清めていくと言う事にならなければ、自分を深く見詰めた自分が深く分かったというだけではおかげにならん。それでもどうにも出来ないものをです。言うなら、それは自分が好んで作ったものではない。矢張り神様からの賜り物として、それを合掌して頂いていくという生き方を、今日は皆さんに聞いて頂いた。そこに拘りがなくなるのです。神様との間に交流するものが生まれて来るのです。
今まではお粗末とばかり思うておった。ご無礼とばかり思うておった。はぁこげん酒飲んで、こげなこっちゃ神様に好かれる筈はないと思うておった。それを「神様、頂きます」と言うて「御」の字をつけて頂く事になったら、神様もニコッとしなさらんわけにはいかんでしょうもん。そこから気分の良い酔い方も出来りゃ有り難い。言うならば飲んじゃいかんと思うばってん、飲んじゃいかんと思うばってんと言うて、飲みよるけんいっちょん、酒は美味しゅうない。
「こげなことじゃおかげ頂ききらん」「こげなことじゃおかげ頂ききらん。」ばってん、どうにも仕方がないと言うのですから。だからそこん所をです。それを御恵みのものとしての頂き方。「御」の字をつけて。そしてそれを有り難く頂かせて貰い、有り難くならせて貰わせて貰うて、そしてそこから又次の改まりに入っていったら良いんです。問題は、おかげを受けなければならない。
おかげがそこに引っ掛かって。どんなに善人だってです。あの人は仏様の様な人、神様の様な人だと言うてもです、拘りがあったら、おかげは絶対に頂けないのです、金光様の御信心は。わだかまりがあったら。それはその人は、例えば世間から爪弾じきをされる様な人でもです、何とはなしに拘らない人があります。信心しておかげを受けるのはね、人の善いと悪いは別物と仰るのは、それなんです。どんなに清らかな水であってもです。さざ波が立っておったら影は映らないでしょうが。
映っても崩れてしまうでしょうが。それと同じです。それが例えば下水の水の様な、土田圃汁の様な水であっても、それが平生にしとれば手を持っていけば手が映り、顔を持っていけば顔が映るです。おかげというものはそんなもんです。だから清まらなければ、改まらなければ、おかげが受けられんと言う事ではないです、おかげは言うならば「あんな奴が」と、例えば後ろ指を差される様な人でも、おかげを受けるです。お取り次ぎを頂く、心が安らぐ。それにおかげが映ずるのです。
ほらもう清らかな人、美しい人そして一生、清貧に甘んずると。馬鹿な話ですよこんな馬鹿な話はない。清貧に甘んずるなんていう様な事がある筈がない、金光様の御信心をするなら。そこでその土田圃汁でもです、これが平生であれば影が映るのだけれどもです、影が映る、影が頂ける、おかげが頂ける事によって、神様を、愈々信ずる力を作っていくこと。そして次に言うならば、清まって行く事に努めるのです。清らかな水そしてそれが平生である。これに映るおかげが、これはもうお徳に伴う影です。
だから土田圃汁に映る様なおかげを頂いておる間はです、さっき私が皆さんに申しましました、これは悪い事だと思うておった事がね、悪い事ではなくて「御」の字をつけて頂く事になったら、おかげがずうっと頂ける様になる。そこで神を信ずる氏子と言う事になって来るのであり、そして段々話を聞かして頂けば頂くほど、改まると言う事が、有り難く出来て行く事になって、この土田圃汁の様なのがです、清まって来る。それがそれこそ、濾過された様な水になって来る時に、それを薬水と言う。
同じ水でもです言うならば、薬になる様な水があるのです。濾過した上にも濾過し、濾した上にも濾させて貰うてです。それが濾過水とも成る様なおかげになる。それこそお医者さんが、手水に使われる様なお水です。そういう風なおかげを辿らせて頂く時に、段々信用、神様の信用が篤くなって来るのです。だから神様の御信用を受けるという人、神に信じられる氏子が少ないと仰せられるが、私は合楽に御神縁を頂く人達は、全部神様に信じられる氏子になって貰いたい。
ためには先ずおかげを受けて貰いたい。そして小規模ながらす言うなら、薬の要らない世界病気の無い世界、貧乏の無い世界争いの無い世界。そういう世界を自分の家庭に現わして愈々「神様に信じられる信心とは」と言う所に焦点を置いて、信心が進めて行くおかげ。そういう信心を、神様が求めておられるのであり、願っておられるのであります。そういうおかげを頂く事の為にお互い、の信心修行がなされておるんだと。
もう何と言うてもね、信心ほど尊いものは無いと言うか、これはね人間がこの世に生を受けさせて頂いてです。真の信心を身につけると言う事の為に、この世に生を受けてきたのですから、もう何を置いても信心だけは、本気で身につけていかなければならない。そして信心の徳を、あの世に持って行けれるものにして行かねばならない。もちろん、この世にも残していけれる信心を身につけていかねばならない。
そういう信心とは、神様に信じられる氏子にお取り立てを頂いてからの事である。只神様にお願いをしておかげを受けていくという、おかげの信心に止まったんでは、それはおかげは頂いても、あの世に持って行けるというもんではない、この世に残しておけるというものでもない。その過程において、今日は神様を先ず信ずる事の出来るために、おかげを受けよと聞いて頂いた。そこから神様にまた信じられる氏子にお取り立てを頂きたいということの過程を聞いて頂きました。
どうぞ。